はじめまして!
美堀町整体院院長の松本智久です!

「いつも笑顔でいたい!」そんなあなたを全力でサポートするために、私はこの仕事をしています。

この仕事をする上で私が一番大切にしていることは、お客さまと共通のゴールを設定し、そこを目指して共に歩んでいくというスタンスです。

施術家の独りよがりではお客さまの本当の望みを叶えることができません。
お客さまが施術家に依存度しすぎてしまっても、やはりゴールにたどり着くことは難しくなります。

いつでもどんな時でも、たくさん言葉を交わしながら、健康高度1万メートルを目指して共に歩んでいきましょう!

ここではあなたと共に歩く私について紹介させていただきます。
どんな人間が施術をするのか、という不安があると思いますので、その不安を安心に変えていただけたらうれしく思います。

プロフィール

名前松本智久 55歳
家族妻、娘、息子
ゆかりのある土地静岡県富士市生まれ
宮城県岩沼市育ち
東京都昭島市在住
性格温厚、素直、責任感が強い
趣味妻と一緒に日帰り温泉巡り
自然と触れ合う
好きな動物ワンちゃん、小鳥
好きな食べ物具沢山の野菜スープ、卵焼き、ハンバーグ、トンカツ
好きなスポーツバレーボール、サッカー
好きなテレビ番組さわやか自然百景
好きなアーティスト小田和正さん、嵐
心掛けていること感謝の気持ちを忘れない
人のせいにしない
聞く耳をもつ

幼少期

静岡県富士市で生まれましたが、1歳半の頃に父の転勤で宮城県の岩沼市に移りました。
初めて覚えた言葉は東北弁でしたが、今は少し変わったイントネーションの標準語しか話せません。
東北弁が大好きですので、とても残念です。

住まいは会社の社宅アパートで、同世代の子供がたくさん住んでいました。
野球、ドッジボール、ローラースケートなど、日が暮れるまでみんなと遊び回っていた楽しい幼少時代でした。

中学〜高校時代

中学校に入ると兄の影響でバレーボール部に入りました。
中学校の時はエースでキャプテンでしたが、トスに注文をつけるようなわがままなやつでした。

しかし、高校ではセッターとなり、先輩からトスが悪いといっぱい叱られ、中学時代の自分を大いに反省することとなりました。

セッターを頑張ってくれていた○○君、本当にごめんね。

治らなかった膝の痛み

私が高校生だった時にこんな経験をしています。
1年生の夏頃から膝が頻繁に痛むようになり、ひどい時には帰宅中に自転車が漕げなくなってしまうほどでした。

そんな時、病院に行けばきっと治してもらえると大きな期待を抱き、整形外科へ行ったのですが、お医者さんは次のようなセリフを口にしました。

「あぁ、これはジャンパーズニーって言ってバレーやってる子に多いんだよ。ジャンプするスポーツの宿命みたいなものだから、バレー辞めなきゃ治らないよ。それか思い切って手術しちゃうかだね。」

原因もはっきりとはわからず、手術なんて恐ろしい話までされて、結局、湿布をもらってとぼとぼと帰ってきたことを覚えています。
もしかすると、そこの病院がたまたまこのような対応だったのかもしれませんが、子供ながらに不信感と絶望感を抱いたものでした。

まだ整体院があまりないような30年以上も前の話です。

大学時代

子供の頃から動物や自然のテレビ番組が大好きで、中学、高校時代も理科や生物の授業が好きだったこともあり、玉川大学農学部農学科に進学しました。

小原国芳先生が創立した学校で、ピアノも弾けば牛糞も運ぶ、という感じの「全人教育」を掲げる学校で、今の人格を形成するための大切なことを学ぶことができました。進学させてくれた両親には感謝しています。

3年生の時に昆虫学研究室に入り、ミツバチの研究に没頭しました。
ミツバチに100回くらい刺されましたが、今でもミツバチは大好きな昆虫です。

この時期に身体や健康について関心を持ち始め、足つぼの本などを購入するようになりました。
将来、自分が身体に関わる仕事につくとは夢にも思っていませんでしたが・・・

サラリーマン時代

世の中のお役に立てる仕事がしたくて、環境関連の会社に就職しました。
そこでは、風力発電事業の可能性調査を行う部署にいたのですが、まだまだ風車の建設が始まったばかりの頃で、風況調査のために、全国を飛び回るような生活でした。

北は北海道の稚内から南は沖縄県の離島まで、日本全国風の強そうな地域を探して、年間100日くらいの出張をこなしていました。

風速計を建てて1年間データを集め、報告書を作成するという仕事内容でしたが、現地の方々との交流がとにかく楽しくて、人と直接関わる仕事というものへの憧れがだんだんと増していき、8年と数ヶ月経った時に会社を辞めて、思い切って整体の世界へ飛び込みました。

整体の修行時代

31歳の時、横浜にある凄腕の先生のところで、骨盤矯正を主軸とした手技の修行をさせていただきました。
そこはいつも患者さんがあふれかえっている院で、週末などは順番待ちの方が20人以上、椅子や床に座っていました。

この修行時代は楽しいことより辛いことの方が圧倒的に多かったです。

「あなた見習いでしょ、悪いけどあなたにはやって欲しくない」(当然といえば当然ですが)そんなことを何度となく言われたり、私がベッドに近づくと、露骨にがっかりされたりして、しょっちゅう落ち込んでいました。
技術習得の難しさより、人々のお役に立ちたいという思いとは真逆の事象がとにかくきつかったです。

そんな辛い修行時代でしたが、初めて全ての施術を任された腰痛持ちの高校球児くんの施術を終え、「全く痛くないです!ありがとうございました!」と言ってもらえた時の喜びは、今でもはっきりと覚えています。
その他にも私が見習いと知っていながらも施術を受け入れて下さり、私の目をじっと見つめ「すごくよかったよ」と言って下さった方もいました。
頑張りなよ、という優しい思いがしっかりと伝わってきました。

師匠は見て覚えろ!という厳しいタイプの方でしたが、兄弟子とお手伝いに来ていた女性が、いつも優しくフォローして下さり、やっとの思いで整体師としての修行を終えることができました。

開業から現在に至るまで

横浜の整体院での修行を終え、知り合いの方々の往診施術で技術力を高めたのち、2000年に整体院を開業し、2018年に現在の昭島市に移転いたしました。

施術室は、少しでもお客様が心からほっこりしてもらいたいと思い、妻の毛糸の作品を飾ってみました。
私にとっても大好きな空間となっています。

整体師として歩む人生はとても充実したものでしたが、悩むこと、苦しむことは山のようにありました。
その苦しみのほとんどは、結果が出せなかった時の虚しさや、申し訳なさ、情けなさ、そして、悔しさでした。
そんな時は、夢の中でも施術をしていました。

もっと有効な手技はないものかと模索もしました。
お客さまと目指すゴールに辿り着きたい一心で、色々な技術を学びました。横浜、川崎、岡山、奈良、神戸など、習得したい技術があれば、どこへでも学びに行きました。

その結果、学んできた技術を組み合わせることで、現在の施術法が確立でき、様々な症状に対して自分自身納得できる結果が得られるようになっています。

でも、まだまだです。
技術は日々進歩しています。
お客さまの身体も一人ひとり違います。
鍛錬をおこなることなく、これからも努力を続けて参ります。